2006年08月17日

岩渕の祖

前九年の役に源頼義・善家軍が、安倍貞任によって散々な敗北を蒙ったのが黄海の合戦場であった。その要衝の地を鎌倉時代以来領した豪族が岩淵氏であった。千葉氏の一族といわれるが、その出自は諸説あって謎が多い。
 藤原秀郷の後裔小山下野大掾政光の弟に下川辺行義があり、その裔で下総国岩淵郷に移った行経の子に定経があった。その養子清経が1305年に奥州の八沢に下向し定着した。それが岩淵氏の祖であるとする。ところで、清経は葛西清時の四男とするもの、いや清親の子であるとするものもあるが、年代的には清親の子とする方が妥当なようだ。また、葛西系譜には四代太守清経は、1305年宗方の乱に与し、罪を得て陸奥の国に配流になり葛西清信に預けられたとあり、それが岩淵の祖の清経であるとする説もある。年代的には合致するが、周囲の状況からみて無理があるようだ。いずれにしても藤原姓から平姓に変わったことは間違いないようだ。
 経清の弟正経は、葛西高清に従い馬籠攻めに参戦して功を挙げ、高倉荘に進出した。その子家経もまた1342年に薄衣清村と流郷で戦い、桃生・牡鹿に采地を賜ったという。
 本家岩淵氏は高倉荘長井氏とも縁を結び、北上川に添い南下拡大してゆく。五代時経に男子がなく、葛西信貞の子を迎え忠経と称し、葛西氏との縁を深めている。そして、奥玉・曽慶・赤荻などの支流を出している。年代は不明だが黄海にも支流を分立させ、さらに下流の嵯峨立にも支流を分出している。
 1527年には同族の黄海高郷と嵯峨立信輔が争い、応援の赤岩城主熊谷直秋・直益父子が戦死する激しい合戦をしている。岩渕氏は武断の家柄であったようで、敏経は江刺攻めで、経世は黄海との同族の争いで戦死するなど当主の死が続き、後見役によって支えられたらしいが、経平の代に至り、暫く治世が長く続いて勢力も復活している。
 1588年、岩淵近江守と大原飛騨守との間で確執が生じ、小梨一徳田で戦闘が起こった。折しも葛西時信が浜田征伐の帰路であったため立ち寄り、大原茂光の子を岩淵経宣の養子とすることで講和させている。経宣の兄弟が存在するなかでの大原氏からの入嗣は、岩淵氏の衰勢を思わせるが、奥州仕置の際の行動も目立ったものではなく、その頽勢は蔽うべきもないものがあった。
 最後の当主も民部信時とか近江守秀信と伝わり定かではない。また、山城守経政が迎撃軍に参加したが、子の経定は九歳で匿われたとか、経光が成長後南部氏に仕官したとか、経清が一揆戦で戦死したとか様々に口碑が残されているが、その関連は不明である。黄海岩淵氏では、高郷の子三人がそれぞれ伊達氏の支流に仕官したと伝える。涌津岩淵氏では、経顕が仕置で戦死し、曽慶岩淵氏の兵庫元秀は南部氏に仕官したという。滅亡後の身のふりかたはそれぞれバラバラであった。
 岩淵信教の三男はのちに後藤寿庵を名乗り、キリシタン武将として知られている。仕置滅亡後、長崎に遊学し、慶長十六年に伊達政宗に仕え、石筵領主の後藤信康の義弟として胆沢郡福原に千二百石で封じられた。後にキリシタン禁制とともに転宗を迫られて従わず、失踪して行方不明となった。寿庵は岩淵信時の弟又五郎であったとする伝えもあるが、それらを傍証するものは何もない。
【資料:葛西中武将録】

岩淵(近江守)経信の妻は葛西信常の娘といわれている(『米川鱒淵岩淵系図』:『岩手県史』所収)。
岩淵忠経(兵庫助):葛西氏十代葛西満信(1370〜1420)の弟・葛西信貞の次男が養子に入って岩淵忠経(兵庫助)となる
岩淵(近江守)時経:磐井郡東山郷藤沢領主。
岩淵(駿河守)経朝:磐井郡流郷涌津領主。
岩淵(三河守)経定:民部。磐井郡流郷涌津領主。文明十七年(1485)の南部政盛との気仙郡の戦いで大いに活躍。登米郡に所領を賜る。明応四年(1495)六月の江刺隆見との江刺郡の戦いでも戦功をあげる。
無題.JPG

我が家に伝わる家系図によると、我が家は岩渕近江守、壱岐守の子孫に当たるらしい。おいおいその辺の資料は公開します。
posted by Butthyi at 17:11| Comment(4) | TrackBack(0) | 歴史の中の岩渕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私も岩渕近江守の子孫らしいです。
Posted by ぶちお at 2009年06月02日 15:22
はじめましてこんにちは
岩淵の歴史を調べていてこのブログに辿り着きました。
残念ながら我が家には家系図はないのですが、私の先祖も水沢姉体で古くから地主だったようです。
水沢区内にも親戚がいるようですので、もしかすると遠戚かもしれませんね。
因みに4代前は姉体村の初代村長を務めていたようで、5代前は作太郎という名前まで確認をとっているのですが、その前がよくわかりません。。。
どなたかご存知の方がいれば情報ください。
Posted by 秀 at 2009年07月02日 01:11
始めまして。
同じく岩渕の歴史を調べていて辿りつきました。

我が家も家系図が紛失しておりますが、母の話では岩淵氏の子孫、後藤寿庵に関係のある家系であり、祖父の家がそうであったそうです。

その祖父は上が全て姉だったために跡を継ぐ予定だったのが、本人が嫌がって姉の夫が家を継いだそうです。

いま水沢にある後藤寿庵の銅像はその祖父の姉の夫がモデルらしいですが、うちと後藤寿庵がどう関係があるのかは不明です。

どう調べても出て来ないので、その辺りの当時の事情に詳しい方がいましたら、情報を頂けると嬉しいです。
Posted by 名無し at 2010年01月06日 10:18
私も岩渕の歴史を調べてて辿りつきました。

私の父は末っ子で北海道出身ですが、ウチはもともとは岩手県だそうです。
嘘が本当か、南部藩の重臣だったとのこと。(確認のしようがありませんが..)戦前は、牛車や刀・鎧などが沢山あったそうですが、時の政府にもっていかれたと聞いています。
婆ちゃんは若い頃、乗馬やハングライダーをしていたハイカラさんだったそうです。
1番上のおじは幼少時代を岩手で過ごしており、その頃の遊び相手は、家によく来ていた芸者さん達だったとのこと。
おじは亡くなってしまったので詳しい事はわかりませんが、その頃の家は何処かの駅近くで、文化財のような扱いで残っているそうです。
まだあるのであれば、1度行ってみたいです。
Posted by ぶっちー at 2013年08月20日 20:28
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