2006年08月19日

伊達政宗、豊臣秀吉と葛西晴信 

葛西氏を支えた武将家

 葛西氏が奥州五郡に入部のとき、同族である千葉氏もともに入部している。また、建治二年(1276)、葛西太守清時の養子となった千葉介頼胤の子胤信は、十五歳で元服して清信と名乗り郎党数百人を従え奥州に下向した。結果、葛西氏の家臣には千葉氏の分かれを称する者が多い。もちろん、葛西氏から分かれた江刺・柏山・大原の諸氏も、家臣となって宗家葛西氏を援けた。
 また、葛西氏と同じように関東から入部し、葛西氏と対抗した熊谷氏、首藤山内氏、そして、鎌倉幕府の能吏を多く出した二階堂氏らも、やがて葛西家臣となっている。
 葛西氏はこれらの家臣団をもって、南北朝期、戦国時代を生き抜いてきたのである。しかし、戦国時代末期になると、葛西氏の老朽化は進み、有力家臣、一族との抗争が頻発する。ついには、それへの対応に手間どったことから小田原参陣を果たせず、葛西氏は奥州仕置を迎えることとなるのである。
 そして、豊臣秀吉による奥州仕置の結果、葛西氏は領地を失い、新しい領主として木村伊勢守父子が入部してくる。しかし、木村氏は暴政でのぞみ、葛西・大崎に属した旧武士団はこれに対抗した。「葛西・大崎一揆」とよばれるこの乱には多くの葛西家遺臣が参加した。一揆の背景には伊達政宗の扇動があったともされている。
 反乱は政宗の目論見通りに運び、天正十九年(1591)には葛西大崎旧領が伊達家の所領に内定することで伊達軍団総動員による一揆討伐が行われる。春には大崎領の宮崎城攻略に続いて登米郡佐沼城が包囲され、一週間の攻防ののち陥落し、有名な佐沼城の“ナデ斬り”で二千五百余人が討ち取られた。さらに、同年八月には桃生郡江糠塚山で、一揆物頭衆がだまし討ちで全滅し、伊達氏の相次ぐ術策と蹂躙の中で、葛西氏遺臣の多くは息の根を止められるのである。
 葛西氏が完全に没落すると、家臣団はそれぞれに保身の道を選んだ。葛西氏傍系重俊はじめ伊達家に勤仕する者が多かった中で、葛西晴信の子と伝わる信景はじめ、大身の柏山・江刺・長坂。浜田・大原氏らはひとしく南部家を志向した。
 栗原郡三迫の雄富沢幽斎は伊達寄りで、天正十八年(1590)小田原から政宗に親書を送られている者だが、逸早く転身して南部家に仕え、慶長六年(1602)の和賀兵乱では南部の将として出陣、伊達家の剛勇鈴木将監重信と夏油川で一騎討ちとなり、鈴木を打ち止めている。
 葛西遺臣らは門前にサイカチの木を植え、同志の目印とした。「カサイカツ」を合言葉に再起を誓ったのであった。サイカチ伝説はまさに葛西家臣衆怨の声なき声ではなかったろうか。

(葛西家に属した武将家)
岩淵氏  薄衣氏  江刺氏  大原氏  柏山氏  亀卦川氏  金氏  熊谷氏  
黒沢氏  寺崎氏  長坂氏  寺池二階堂氏  浜田氏  星氏  馬籠氏  矢作氏
山内首藤氏


嗚呼、残念無念!!葛西・大崎一揆

 天正18年(1590)、葛西・大崎氏領は小田原参陣の遅参をもって秀吉に没収されてしまった。そして、新しく豊臣家臣の木村吉清父子に与えられた。一揆はもともとこの新領主に対する葛西・大崎遺臣らの反抗によって始まったのである。一揆の原因として、新領主の暴政、太閤地検の強行などが挙げられるが、伊達政宗の扇動があったとされる。
 天正十八年の秋に発生した一揆は、秀吉の命令によって出動した蒲生氏郷と伊達政宗によって鎮圧され、木村氏は救出された。
 この蒲生・伊達の協同戦線において両雄間にトラブルが起こり、嫌疑を受けた政宗が秀吉に呼び出された時、金の磔柱を持参したのは有名である。
 裁判の結果、政宗の嫌疑は解け、翌天正十九年春、その地へ移封の内示を受けた政宗は一揆軍に対して、徹底討伐の軍を起こす。伊達家の陣触れは五月二十七日で、集結した軍勢は二万四千人と伝える。伊達軍が真っ先に攻めたのが、加美郡の笠原一党が籠る宮崎城で、時に六月二十日であった。宮崎城を屠った伊達軍は即時大崎原野を東進し、同月二十八日、葛西・大崎一揆軍最後の拠点である佐沼城を包囲した。
 佐沼城は水城で、容易に攻め込めない堅城であった。しかし、伊達軍による連日の波状攻撃でさすがの堅城も落ち、城内の武士五百人、百姓ら二千余人が斬殺された。これが伊達政宗の「佐沼城のナデ斬り」で、『成実記』に「城中ノ死者余リ多ク、人ニ人カサナリ土ノ色ハ何モ見エ申サズ候」と戦慄すべき描写をなしている。これは、さきの伊達政宗の扇動の証拠を消す意味もあって、かくのような皆殺しとなったとする説もある。
 かくして、葛西・大崎氏旧領は伊達氏に帰属したのである。


奥州仕置

  戦国末期の葛西氏は、その体質が老朽化する一方で家臣団の巨大化が進み、領内には主家葛西氏に対する家臣団の反抗、あるいは有力家臣同士の相克が頻発した。葛西晴信治世の後半は、支族、有力家臣との間に相次ぐ抗争を調停、融和のために奔走したといっても過言ではない。
 天正十八年(1590)春、葛西氏にも豊臣秀吉の小田原陣に参候すべき運命の日が巡ってくる。しかし、結果的に参陣を果たすことができず、所領没収の憂き目に遭う。これには、領内家臣の抗争を鎮圧するのに日時を要し、その気を逸したとされるが、中央政権へ通ずる先進的外交を欠き、大局を見切れなかった判断の甘さが最大の原因であろう。
 また、奥州では伊達家周辺の大名・国人衆が、上方情報を伊達氏という一つのフィルターを通して見ていたという側面もあった。すなわち、伊達氏がもたらす二次情報に依存するとか、あるいわ伊達家の行動そのものに眩惑されることで、道を誤ったというのも一因ではなかったか。
 天正十八年七月、伊達政宗は葛西晴信に書を送り「奥州の義は申すに及ばず、出羽に至るまでもお仕置は当家へ仰付らる」と報じている。小田原にいたこの時の政宗は、まさき葛西家を足下に踏まえた代理人というより連合国統領の姿勢であった。
 『葛西真記録』によると、天正十八年七月、豊臣方仕置軍が奥州に入った。主力になったのは蒲生氏郷・木村弥一右衛門の軍で、伊達政宗は案内役をつとめた。葛西方は桃生郡深谷の神取山、栗原郡森原山に陣を構えて仕置軍と交戦。ついに本城の寺池城は重囲に陥って落城し、晴信は戦火のなかで自刃し葛西氏は滅亡したと記されている。葛西軍が配陣して戦闘態勢をとったのは充分に考えられるが、はたして領内で大激戦が展開したかどうかは疑問とされている。『大崎記』には「将軍の御勢いに向い一戦すべきようなく同八月おちうせにける」とあるように、天下の仕置軍の威容を目の当たりにして、戦意喪失、逃げ散ったというのが真相ではないだろうか。
 おそらく、翌十九年の葛西・大崎一揆における“佐沼城のナデ斬り” 事件、すなわち伊達氏の手によって行われた大事件を、十八年の豊臣仕置軍や木村伊勢守の手によって行われたように書き直されたものであろう。天正十八,十九年と両年にわたり同じ場所で同じような大事件が発生するだろうか。
 晴信は天正十八年八月、黒川郡大谷荘を賜り同地に住んだ。自刃はしなかったのである。そして、葛西氏再興の運動が持ち上がったことは『熊谷文書』などで知ることができるし、蒲生氏郷が政宗に宛てた同年十一月の書簡に「葛西身上の事」と書かれていることでも推測できる。しかし、同年秋におこった葛西・大崎一揆の発生のため、葛西氏再興運動は沙汰止みとなり、晴信は加賀国へ流浪する身となり、慶長二年(1597)彼の地で没した。
 葛西・大崎一揆は、奥州に新しく来住した領主木村伊勢守吉清・清久父子の暴政に対する旧武士団の反抗であるが、その背景には伊達政宗の扇動があったとされる。叛乱は政宗の目論見通りに運び、十九年には葛西大崎旧領が伊達家の所領に内定することで伊達軍団総動員による一揆討伐が行われる。昨日までの盟友が恐るべき敵に変貌したのである。春には大崎領の宮崎城攻略に続いて登米郡佐沼城が包囲され、一週間の攻防ののち陥落し、有名な“佐沼城のナデ斬り”で二千五百余人が討ち取られた。さらに、同年八月には桃生郡江糠塚山で、多数の一揆物頭衆がだまし討ちで全滅し、伊達氏の相次ぐ術策と蹂躙の中で、葛西氏は完全に息の根を止められるのである。
 

■ 奥州仕置に対する葛西氏の配陣(伝)

●深谷荘和淵村出陣(800余騎)
和淵で木村伊勢守吉清の軍と激突し、大将・胤元はじめ諸将が討死して潰走。
大将千葉左馬助胤元(登米郡西郡城主)
大将千葉十郎五郎胤永(桃生郡女川城主)
及川紀伊守頼貞(登米郡鱒淵城主)、千葉修理亮胤則(登米郡狼河原城主)、岩淵近江守経平(東山郷藤沢城主)、千葉新左衛門尉武虎(東山郷黄海城主)、及川美濃次郎頼兼(東山郷津谷川城主)、菅原左近将監重国(本吉郡山田城主)、米倉右近行友(本吉郡津谷)、峯岸数馬有盛(本吉郡津谷)、三条小太夫近春(本吉郡小泉城主)、寺崎伊予守祐光(桃生郡寺崎城主)、飯野但馬守正秋(桃生郡飯野城主)、嵯峨舘左近、水戸部九郎、箕輪田弥惣右衛門、歌津右馬、亀卦川三郎左衛門、及川隠岐入道

● 桃生郡中津山香取(1700余騎)
千葉左馬助胤元を和淵で破った木村伊勢守吉清の軍を背後から攻撃。蒲生氏郷の軍に攻撃されて潰走。及川掃部頭は佐沼城の晴信に合流し、落城時に乱軍のなか一人奮戦したが衆寡敵せず、自害した。
大将千葉飛騨守胤重(東山郡大原城主)
大将及川掃部頭重綱(気仙郡蛇ヶ崎城主)
【脇頭】千葉九郎三郎胤時(東山郷奥玉城主)
鳥海美濃守頼勝(東山郷鳥海城主)、千葉右馬助吉胤(東山郷上折壁城主)、千葉遠江上胤宗(東山郷下折壁城主)、千葉修理亮家胤(東山郷清水馬場城主)、熊谷主馬亮為安(本吉郡気仙沼城主)、安部四郎左衛門重時(本吉郡唐桑城主)、横田佐渡守常冬(気仙郡横田城主)、人首権太夫(江刺郡人首)、伊手隼人(江刺郡伊手)、摺沢将監、寺沢丹後、岩淵対馬、矢作内膳、上有住左近


● 栗原郡高清水森原山出陣(1500余騎)
蒲生氏郷に攻められ潰走。大将・胤勝は逃亡した。

大将千葉甲斐守胤勝(東山郷薄衣城主)
【脇頭】千葉大膳亮胤村(東山郷長坂城主)
昆野小次郎定住(東山郷千厩城主)、柴股大学義武(東山郷釘子城主)、笹町新九郎経尚(東山郷西釘子城主)、岩淵壱岐守経道(西磐井郡赤萩城主)、千葉左門胤連(流郷日形城主)、千葉彦九郎久胤(流郷富沢城主)、及川主計頼通(流郷男沢城主)、蝦島蔵人盛永(流郷蝦島城主)、砂小田帯刀、升沢滝口太郎、金成右近大夫、畑村対馬


● 寺崎城から佐沼城に居城を移して篭城。
大将葛西左京大夫晴信
【一門】葛西式部少輔信政、葛西民部少輔信国
【宿老】及川越後守、青梅尾張守
【家老】赤井播磨守、福地下総守、門田丹波守、末永筑後守
【侍大将】千葉三河守胤虎(岩谷堂城主)、千葉兵庫助胤元(岩谷堂嫡子)、柏山摂津守胤道(百岡城主)、柏山千葉若狭守胤衡(百岡嫡子)、本吉千葉大蔵少輔胤政(清水川城主)、本吉千葉常陸介胤遠(清水川嫡子)、高田壱岐守胤冬(高田城主)、長部藤右衛門正行(長部城主)、及川掃部頭重綱(蛇ケ崎城主)
【近習】富沢日向守、寺崎石見守
【武将】浜田彈正、摺澤出雲、築館筑前、上沼備中、武鑓典膳、金田豊後、柳津三河、馬込四郎兵衛、小山九郎、今泉左門、赤崎右近、安倍四郎兵衛、手塚庄蔵、二関平蔵、及川淡路、菅原左近、大貫丹藏、千田要人、佐藤重見、小野寺藤三、須藤弥兵衛、可野助市、矢崎又太郎、下河原丹治、白石求馬

天正十八年(1590)大崎葛西陣割

● 大崎氏陣立
【先陣】志田数馬義時、玉造石見義晴
【二陣】伊具大学時近、遠田時春
【三陣】名取時光、宮城義国
【右陣】宇田少輔道国、上野蔵人兼光
【左陣】宮崎時光、平 義盛
【一門】大崎右兵衛尉義政、大崎左兵衛佐義繩、大崎右衛門尉義為、大崎家成、大崎義時、大崎義宗
【大将】大崎左衛門尉義隆→【家臣】新田刑部少輔義時、新田義清
・ 義隆子大崎右京進義満→【家臣】松田左平治義秀
・ 義隆子大崎次郎義道 →【家臣】亘理国満
・ 義隆子大崎三郎満隆 →【家臣】熊谷実時、熊谷実光
大崎右京大夫義光、大崎左京大夫光時、大崎左馬助義仲
posted by Butthyi at 21:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史の中の岩渕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月17日

岩渕の祖

前九年の役に源頼義・善家軍が、安倍貞任によって散々な敗北を蒙ったのが黄海の合戦場であった。その要衝の地を鎌倉時代以来領した豪族が岩淵氏であった。千葉氏の一族といわれるが、その出自は諸説あって謎が多い。
 藤原秀郷の後裔小山下野大掾政光の弟に下川辺行義があり、その裔で下総国岩淵郷に移った行経の子に定経があった。その養子清経が1305年に奥州の八沢に下向し定着した。それが岩淵氏の祖であるとする。ところで、清経は葛西清時の四男とするもの、いや清親の子であるとするものもあるが、年代的には清親の子とする方が妥当なようだ。また、葛西系譜には四代太守清経は、1305年宗方の乱に与し、罪を得て陸奥の国に配流になり葛西清信に預けられたとあり、それが岩淵の祖の清経であるとする説もある。年代的には合致するが、周囲の状況からみて無理があるようだ。いずれにしても藤原姓から平姓に変わったことは間違いないようだ。
 経清の弟正経は、葛西高清に従い馬籠攻めに参戦して功を挙げ、高倉荘に進出した。その子家経もまた1342年に薄衣清村と流郷で戦い、桃生・牡鹿に采地を賜ったという。
 本家岩淵氏は高倉荘長井氏とも縁を結び、北上川に添い南下拡大してゆく。五代時経に男子がなく、葛西信貞の子を迎え忠経と称し、葛西氏との縁を深めている。そして、奥玉・曽慶・赤荻などの支流を出している。年代は不明だが黄海にも支流を分立させ、さらに下流の嵯峨立にも支流を分出している。
 1527年には同族の黄海高郷と嵯峨立信輔が争い、応援の赤岩城主熊谷直秋・直益父子が戦死する激しい合戦をしている。岩渕氏は武断の家柄であったようで、敏経は江刺攻めで、経世は黄海との同族の争いで戦死するなど当主の死が続き、後見役によって支えられたらしいが、経平の代に至り、暫く治世が長く続いて勢力も復活している。
 1588年、岩淵近江守と大原飛騨守との間で確執が生じ、小梨一徳田で戦闘が起こった。折しも葛西時信が浜田征伐の帰路であったため立ち寄り、大原茂光の子を岩淵経宣の養子とすることで講和させている。経宣の兄弟が存在するなかでの大原氏からの入嗣は、岩淵氏の衰勢を思わせるが、奥州仕置の際の行動も目立ったものではなく、その頽勢は蔽うべきもないものがあった。
 最後の当主も民部信時とか近江守秀信と伝わり定かではない。また、山城守経政が迎撃軍に参加したが、子の経定は九歳で匿われたとか、経光が成長後南部氏に仕官したとか、経清が一揆戦で戦死したとか様々に口碑が残されているが、その関連は不明である。黄海岩淵氏では、高郷の子三人がそれぞれ伊達氏の支流に仕官したと伝える。涌津岩淵氏では、経顕が仕置で戦死し、曽慶岩淵氏の兵庫元秀は南部氏に仕官したという。滅亡後の身のふりかたはそれぞれバラバラであった。
 岩淵信教の三男はのちに後藤寿庵を名乗り、キリシタン武将として知られている。仕置滅亡後、長崎に遊学し、慶長十六年に伊達政宗に仕え、石筵領主の後藤信康の義弟として胆沢郡福原に千二百石で封じられた。後にキリシタン禁制とともに転宗を迫られて従わず、失踪して行方不明となった。寿庵は岩淵信時の弟又五郎であったとする伝えもあるが、それらを傍証するものは何もない。
【資料:葛西中武将録】

岩淵(近江守)経信の妻は葛西信常の娘といわれている(『米川鱒淵岩淵系図』:『岩手県史』所収)。
岩淵忠経(兵庫助):葛西氏十代葛西満信(1370〜1420)の弟・葛西信貞の次男が養子に入って岩淵忠経(兵庫助)となる
岩淵(近江守)時経:磐井郡東山郷藤沢領主。
岩淵(駿河守)経朝:磐井郡流郷涌津領主。
岩淵(三河守)経定:民部。磐井郡流郷涌津領主。文明十七年(1485)の南部政盛との気仙郡の戦いで大いに活躍。登米郡に所領を賜る。明応四年(1495)六月の江刺隆見との江刺郡の戦いでも戦功をあげる。
無題.JPG

我が家に伝わる家系図によると、我が家は岩渕近江守、壱岐守の子孫に当たるらしい。おいおいその辺の資料は公開します。
posted by Butthyi at 17:11| Comment(4) | TrackBack(0) | 歴史の中の岩渕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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